(2) 最近のアメリカでの実験によると、静寂な状況下と、騒音が大きい状況下で知的作業をさせてみると、通常は前者での方が効率が良いのに対し、時に者でないと仕事がはかどらない被験者が存在するという。しかもそれが、最近なんかと話題の、いわゆる「多動傾向」の人間だというのだ。 この論文を読んだとき、私は我が身を省見て、目からうろこが落ちるというような思いをした。言われてみれば、幼い自分から落ち着きのない子供だと、叱られた。俳諧癖がある。それは今も変わらない。ものを考えている時もひとところでじっとしていられずに、しょっちゅう出歩く。数時間も座ったままで会議をするのが、とても苦痛だ。それから、片付けができない。部屋は散らかり放題に散らかっている。 むろん、しょっちゅう物がなくなる。ひと月の半分を、見つからない書類探しにつぶすことなどざらである。「自分は多動傾向があるんだ」と、 1 今になってしみじみ実感している。 ただし、囲を見渡してみると、同じような傾向の人間は、さほど珍しくないことに思い至る。私のいる職場でも、少なくともあと二人、同様の研究者がいると断言できる。(中略) 京都大学にせよソニーにせよ東京大学にせよ、 2 よく私たちのような者を雇っているものだと思う。 しかし、一応そろいもそろって首にならないでいるところを見ると、それなりに組識に役に立っているからなのであろう。むろん、研究者として役に立つとは、第一義に研究を行って貢献することであるのは言うまでもない。 実際のところ、多動の人間は、事研究ということについてみるならば、それが長所として働くことも珍しくないと私は思う。研究とは、要するに知的な創造行為である。創造とは、新たに過去になかったことを考え出すことにほかならない。 そのためには常識の壁を打ち破らなくてはならない。これは、たやすいように見えて難しい。私たちは、自明性の世界に生きている。自明なことは、意識に上ってこない。「そんなこと当たり前」と受け取ってしまうと、疑いを持たないため、暗黙の前提が出来上がってしまう。自明性を壊すには、 3 意識していない発想上の前提をあらわにし、改めてそれを問い返すこと が求められる。私には、多動の人間には、これに長けているものが相対的に多いように思えてならない。つまり、非常識なのだ。好奇心も強い。世の中を物珍しく感じることが多い。きょろきょろして生活しているので、常識人なら「当たり前」のことも、当たり前でなくなる。それで新たな発見につながるのではないだろうか。